「第1章 序論」企業の労務業務におけるAI RAGの効果的な活用方法に関する研究

第1章 序論

1.1 研究背景

近年、日本社会は少子高齢化の進行により、あらゆる産業分野において慢性的な人手不足に直面している。特に企業の管理部門に属する労務・人事業務においても、その例外ではなく、限られた人員で高度かつ多岐にわたる業務を遂行することが求められている。
加えて、日本企業におけるホワイトカラーの労働生産性は、国際的に見ても低い水準にあると指摘されている。その要因の一つとして、付加価値を生まない定型業務や確認作業、社内調整業務に多くの時間が割かれている点が挙げられる。労務業務においても、制度説明や規程確認といった反復的な問い合わせ対応が日常的に発生しており、本来注力すべき制度設計や労務リスク管理といった高付加価値業務への時間配分を阻害している。
このような状況下で、企業には単なる人員補充ではなく、業務構造そのものを見直し、生産性を抜本的に向上させる取り組みが求められている。その解決策の一つとして、近年急速に発展している生成AI技術の業務活用が注目を集めている。
特に、社内規程やマニュアル、法令解釈文書といった企業固有の知識を参照しながら回答を生成するRAG(Retrieval-Augmented Generation)技術は、労務業務における知識集約型作業を効率化する手段として高い可能性を有している。RAGを活用することで、反復的な問い合わせ対応を自動化・高度化すると同時に、労務担当者がより戦略的・専門的な業務へと役割転換することが可能となる。
一方で、労務業務は法的リスクやコンプライアンス要件が極めて高い領域であり、生成AIの導入に際しては誤回答や判断のブラックボックス化といった課題への配慮が不可欠である。そのため、労務業務におけるAI活用には、単なる自動化ではなく、「根拠に基づいた情報提供」を前提とした慎重かつ体系的な設計が求められる。
以上の背景から、日本企業が直面する人手不足とホワイトカラーの低生産性という構造的課題に対し、AI RAGをいかに効果的かつ安全に活用できるかを明らかにすることは、学術的にも実務的にも重要な意義を持つと考えられる。

1.2 日本企業における労務業務の構造的課題

日本企業の労務業務は、就業規則、賃金規程、勤怠ルール、各種運用細則など、多層的かつ文書中心のナレッジによって支えられている。しかし、これらの情報は必ずしも体系的に整理・統合されているとは限らず、担当者の経験や暗黙知に依存して運用されているケースが多い。
また、社員からの労務関連の問い合わせは、「有給休暇の取得条件」「残業時間の扱い」「育児・介護休業制度」など、日常的かつ反復的な内容が多いにもかかわらず、問い合わせのたびに個別対応が行われることが一般的である。このような対応は業務効率を低下させるだけでなく、回答のばらつきや属人的判断によるリスクを生む要因ともなっている。
従来、これらの課題に対してはFAQの整備や社内ポータルの構築といったIT施策が講じられてきたが、制度改正への追随の難しさや検索性の低さといった問題から、十分な効果を上げているとは言い難い。

1.3 生成AI・RAG技術の登場と企業実務への影響

近年の大規模言語モデル(Large Language Models:LLM)の進化により、自然言語による高度な情報処理が可能となった。しかし、単体の生成AIは学習データに依存する性質上、最新情報や企業固有のルールを正確に反映できないという課題を有している。
この課題を補完する技術として注目されているのが、RAG(Retrieval-Augmented Generation)である。RAGは、外部または内部の情報源から関連文書を検索し、その内容を根拠として回答を生成する仕組みであり、回答の正確性や説明可能性を高めることができる。
企業実務においてRAGを活用することで、社内規程やマニュアル、法令解釈文書などを参照しながら回答を提示することが可能となり、特に正確性が求められる労務業務との親和性が高いと考えられる。

1.4 本研究の目的

本研究の目的は、企業の労務業務においてAI RAG(Retrieval-Augmented Generation)を効果的かつ安全に活用するための方法論を明らかにすることである。労務業務は知識集約型であり、生成AIとの親和性が高いと考えられる一方で、実務レベルにおいてはRAGの本格的な活用が十分に進んでいるとは言い難い。
その背景には、いくつかの構造的要因が存在する。第一に、労務業務は法令遵守やコンプライアンスが強く求められる領域であり、誤った情報提供が法的リスクや労使トラブルにつながる可能性が高い。そのため、生成AIによる自動回答に対する心理的・組織的な抵抗が大きい。第二に、労務ナレッジの多くが就業規則や各種規程、運用細則、過去の個別対応といった多様な文書や暗黙知として分散しており、RAGが前提とする「検索可能で構造化された知識基盤」が十分に整備されていない点が挙げられる。ナレッジの未整理は、RAGの精度や信頼性を低下させる要因となる。第三に、労務業務においては「一意の正解」が存在しないケースが多く、個別事情や運用判断が必要となる場面が少なくない。このような特性に対し、生成AIをどの範囲まで適用すべきか、また人とAIの役割分担をどのように設計すべきかについて、明確な指針が確立されていないことも導入の障壁となっている。
さらに、従来の労務DXは勤怠管理や給与計算といった基幹システムの導入が中心であり、ナレッジ活用や問い合わせ対応といった非定型業務は後回しにされてきた。この結果、RAGのような知識活用型AIを組み込むための業務プロセス設計や運用モデルが十分に検討されてこなかった。
以上のように、労務分野におけるRAG活用が進んでいない要因は、技術的制約というよりも、業務特性、ナレッジ構造、リスク認識、運用設計の不在に起因していると考えられる。
本研究では、これらの阻害要因を整理した上で、労務業務の特性に適合したRAGの活用モデルを提示し、単なる自動化ではなく、判断の質とガバナンスを高める支援技術としてのAI活用のあり方を明らかにすることを目的とする。

1.5 研究の意義と新規性

本研究の意義は、労務業務という高い専門性とリスクを伴う領域に対して、AI RAGを単なる省力化ツールとしてではなく、ガバナンスを強化する知識基盤として位置づける点にある。
従来の研究や実務事例では、生成AIの活用効果が定性的に語られることが多かったが、本研究では労務業務特有の制約条件を踏まえたうえで、導入設計・ナレッジ構造・運用モデルを体系的に整理することを試みる。この点において、労務業務とRAG技術を結びつけた実務的・理論的貢献が期待される。

1.6 本論文の構成

本論文は全10章から構成される。第1章では研究背景および目的を示した。第2章では、日本企業における労務業務の現状と課題を整理する。第3章ではAI RAG技術の概要を説明し、第4章では労務業務への適用モデルを提示する。第5章以降では、ナレッジ設計、導入効果、リスク、ケーススタディを通じて実務的検討を行い、第10章において結論と今後の課題を述べる。

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